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【棒銀一筋】加藤一二三の魅力【神武以来の天才】

[最終更新日:2006年8月14日]

目次

  1. 大山康晴
  2. 升田幸三
  3. 二上達也
  4. 山田道美
  5. 中原誠 ***** 2006年8月14日更新 *****
  6. 米長邦雄
  7. 内藤國雄
  8. 大内延介
  9. 田中寅彦
  10. 谷川浩司
  11. 羽生善治

大山康晴プロフィール

 ご存知、将棋界の巨人。A級在位44期(名人在位含む)はもちろん歴代最高。ちなみに2位は加藤の36期。
 加藤との最初の大勝負は第19期名人戦(1960年)。その第5局で大山は、「わざと決め手を指さずに加藤をなぶり者にした」などとの批判を受けた。具体的には143手目に▲1四銀とすれば勝ちというもの。若い加藤を贔屓する雰囲気がこのような批判を生んだようだが、現在では本譜の▲6二馬こそが大山将棋の真髄であると認識されている。また1968年に行われた第7期十段戦第4局は、加藤三大名局のひとつ「▲6二歩」の一局として有名。
 その他にも数多くのタイトル戦などで顔を合わせ、通算では124局も戦い大山の78勝46敗。

[参考]A級在籍記録(名人在位を含む)
1.大山康晴  44期
2.加藤一二三 36期
3.升田幸三  31期
4.中原誠   29期
5.塚田正夫  28期

 もう大分以前のことだが、私は若手の挑戦を受けて立つ大山の心境を問うたことがある。
 「内弟子修行をして、肌で将棋を覚えた自分らの時代の者は、頭で将棋を覚えた若い人たちに簡単にやられるとは思いませんね」
 と大山は珍しく語気を強めた。「あっさり負かされるようでは、自分らの修行が間違っていたということになりますよ」
 私はこの言葉を二上に伝えた。二上は、
 「人がどういおうと、僕はマイペースでゆきますよ」
 と、さらりと受け流した。
 加藤は遠慮勝ちに、
 「それは、理想でしょうけど・・・・・・」
 と言葉をにごした。「僕らは、たしかに甘いかもしれませんね」
 私は大山将棋の強さは、長い苦しい修行のなかで肉体に植えつけられた芸の自信である、と受取った。戦前の社会で青春時代をすごした私には、大山の言葉が実感として胸に迫ってくる。
 しかし、時代は移りつつある。いま、王将戦の挑戦権をかけた<静かなる対決>を見て、私はこの若い二人のすぐれた棋士に昔風な<勝負師>なる呼称を与えていいのだろうかとためらっている。
天狗太郎『勝負師の門』 光風社書店,1973年,33頁
(管理人注:”王将戦の挑戦権をかけた”とは1967年に加藤対二上で行われた挑戦者決定戦のこと)

升田幸三プロフィール

 戦後の将棋界で絶大な人気を誇った伝説的大棋士。新手一生を掲げ数々の新手・新定跡を生み出し、「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」と評された。その他かずかずの伝説は升田幸三年代記に詳しい。
 上京してきた加藤を可愛がり、加藤夫妻の仲人を務めたり、結婚祝には炊飯器を手ずから贈ったりしたという。

 このときはちょうど順位戦が大詰めで、加藤十段が大山王将との最終戦に勝てばすんなり名人挑戦権を獲得、負けて森安八段が石田八段を破ると同率決戦、という状況だった。

 升田先生、チビチビ焼酎をなめながら、「加藤は今年は大きなチャンスだ。これを逃がすとまた十年廻ってこないから、ぜひとも自力で決めなければいけない。石田なんてのは実力二段だから、森安が勝つに決まっとる。同率になったらあぶないね」

 やはり将棋界の話しになると熱が入る。加藤十段好調の秘密を尋ねると 「加藤が強くなったんじゃないよ。あいつの将棋が変わるかね。中原や大山や米長が五、六年前に比べて弱くなったんだよ。だから勝ちだしたんだ。なぜ弱くなったかって?女だよ女(!!)。米長など週に一度ぐらいしか家へ帰らんそうだ。君、知らんのか? 大山の女知らなきゃモグリだぞ」
東公平将棋雑話―「リ・ベルタン」1982年創刊号掲載 
(管理人注:第40期順位戦の話題。その後加藤は名人獲得)
 加藤一二三九段が故・升田幸三実力制第四代名人に初めて会ったのは、奨励会3級のとき(昭和26年ごろで当時11歳)でした。そのとき加藤少年は、升田について「こわい顔をしたおじさん」と言ったそうです。
 その後、加藤は升田の生き方や将棋に引かれるようになり、心の師と仰いで私淑しました。ある観戦記事によると、加藤の自宅には升田の肖像がかかっていたそうです。升田はそんな加藤を大いに目をかけ、加藤の結婚式では仲人を務めました。
 20歳の加藤が名人戦で大山康晴名人に初挑戦した昭和35年。升田は本誌座談会でこのようなことを語っていました。
 「加藤君は今年負けたらいい。もうなんぼでも機会があるんだから。将棋というものはこんなものだということを知って慢心しなければ、今までだれも到達しなかった大名人になれるだろう。けれども名人戦で加藤君が勝ち、大山では及ばぬのなら、おれが出ていって・・・・・・(笑)」
 加藤の類い稀な才能を認めつつも、勝負の世界の厳しさを痛感している升田が辛い激励の言葉を送りました。
日本将棋連盟『将棋世界』2002年7月号,120頁
 升田幸三が「僕の次の名人にしたい男」の筆頭は加藤一二三だった。稀有の棋才を見込んだからこそ、南口繁一九段門下の加藤少年を京都から東京へ、奪うようにして移らせ、なにくれとなく面倒を見たのだ。
 加藤九段はいまもかたくなに沈黙を守っているが、打倒大山の一番手になり得ず、升田を失望させたことを遺憾としているだろう。
東公平『升田幸三物語』 角川文庫,2003年,221頁
11 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/09/21(木) 05:47
加藤と升田の対戦は本当にエキサイティングだった。
いつも居飛車(加藤)対振飛車(升田)で互いに派手に
駒を捨てたり鬼手を連発したりして、今の将棋よりも
はるかに面白い。
升田が勝つと上機嫌の升田が「あんたは一分将棋の神様じゃろが」とか
「こんなヘボな手でわしを負かそうとする気か」などと、さんざんからかって
加藤が口こたえせず苦笑していた場面が懐かしい。からかわれて嬉しそうだった。
逆に加藤が勝つと終始、升田を立てながら感想戦をしていたらしい。
掲示板より
141 名前:名無し名人 投稿日:05/03/02 02:04:51 ID:7D/0q+yg
>>98それは違いますよ。升田を最後の最後まで尊敬していろいろな面でお世話をしたのは
加藤九段です。加藤九段は升田のことを「事実上の師匠」と最近の雑誌でも書いています。
天才同士、気が合ったのだと思います。升田は加藤九段以外の棋士を信用していなかったし、
加藤九段も升田以外には胸襟を開きませんでした。


142 名前:名無し名人 投稿日:05/03/02 03:39:27 ID:0Bu7z71/
>>141
その言い方はちょっと正しくない。
升田=加藤が実際の師弟以上の間柄なのは本当だけど、これはあくまでも将棋に関してのこと。
升田は棋士の中で加藤の将棋を誰よりも買っていたし、それは加藤にしても同じ。
同じ朝日の嘱託だったというのもあるしね。
ただ、加藤九段は升田以外に胸襟を開かなかったわけではないよ。
かつて加藤が南口九段のトラブルに巻き込まれて、師弟の縁を切る・切らないで大揉めしたとき
「私が加藤君を預かる」と間に立ってトラブルを処理した荒巻九段のことも
升田以上に信頼し、尊敬していた。だから加藤の今の師匠は亡くなった荒巻九段の
代師匠である劔持八段。

升田も引退してからは棋界との関係を殆ど絶ったが、加藤しか信頼していなかったわけではなく
加藤以外に付き合いを絶たなかった棋界関係者が二人だけいる。一人は東公平、もう一人は米長。
升田=加藤が将棋の繋がりとしたら、升田=米長は酒・碁・反大山の繋がり。お互い家が
近かったこともあって、升田が米長の家を訪ねたり、米長が升田の家に若手を連れて
訪ねたり…という間柄だった。


153 名前:名無し名人 投稿日:05/03/03 03:00:14 ID:0gbimnq/
>>142
大体同意ですが、一つだけ反論をお許し下さい。
升田九段と加藤先生は将棋以外でも深い絆で結ばれていました。加藤先生の結婚の仲人は升田九段ですし、
あの升田九段が結婚祝に電気炊飯器を持参して加藤先生のご自宅をたずねたほどです。
又、名人戦をめぐって朝日と毎日が争った時も加藤先生は升田九段の命を受けて
他の棋士を説得する嫌な役回りを甘んじて受けました。
それだけ二人は深い絆で結ばれていたのです。
升田九段が他の棋士から悪口を言われた時、加藤先生は率先して升田九段を弁護し、
「口ではああ言っているが本心は違うのですよ」などと必死になって師匠を庇ったのです。
同様に加藤九段の対局マナーが批判された時、升田九段は「おまえらは加藤君の素晴らしさがわかならいのか」と
よく一喝していました。升田ー米長の関係も親密でしたが、共に碁を打ったりする遊びでは
ウマが合ったと思いますが、人間的な結びつきは升田ー加藤の関係にはかなわないと思います。
掲示板より
528 名前:駒音掲示板より 投稿日:2005/08/06(土) 11:11:06 ID:mteFLt24
Re: 師弟関係にまつわるエピソー... うさこ - 2005/08/02(Tue) 13:36 No.8500

 これは加藤九段のご家族とお食事をした時うかがった話です。
加藤九段は弟子をとられませんが、その理由をたずねたとき、
升田幸三先生から「一二三は器用ではないから、将棋以外のことは
しては駄目になる。将棋のことだけやるように」と若い時言われた
そうです。その升田先生は、加藤九段が名人になられたとき、
すぐ電話で「名人になるのが10年遅かった」という言葉で祝福して
くださったそうです。
 弟子はとらない加藤九段ですが、普及には熱心で、毎年大晦日から正月3が日は、自宅で墨をすって、ファンレターには必ず自筆で
返事を書くのを欠かさない、と娘さんから聞きました。
掲示板より

二上達也プロフィール

 1950年に入門、わずか6年でA級八段になったという天才棋士。加藤より8歳年上でほぼ同時期にA級で活躍した。その容貌から「北海の美剣士」、棋風から「精密機械」、名前から「ガミさん」、カラオケ好きなことから「マイク二上」と呼ばれる。升田大山に続く二番手集団の筆頭格といわれた。羽生善治の師匠ということでも有名。
 大山の全盛期にあたってしまったためタイトル獲得は5期と以外に少ないが、タイトル戦登場回数は加藤よりも2回多い26回。圧巻は49歳から3連覇した棋聖戦で、当時三強と言われていた米長・中原・加藤を倒したことから巷でも話題となり、週刊誌で「窓際族に刺激」と取り上げられたりもした。加藤とのタイトル戦はこの棋聖戦の一回だけだが、他のリーグ戦や挑戦者決定番勝負など数多く戦い、通算対局数は94局(二上の49勝45敗)にも及んだ。

 あれは昭和三十一年秋
 京都新聞主催のお好み対局であった。
 −中略−
 「まだまだあんなのには負けない。やれば鎧袖一触してやる」と。
 温厚な二上にしては珍しい発言だが、二上は今もその言葉をよく覚えている。これが雑誌に載ったから加藤も見た。加藤もよく覚えているとニコニコ笑った。
 −中略−
 勝ちはしたが二上は加藤の強さを身を持って感じた。「評判どおりのことはある」と。
 −中略−
 初対局は「なかなかやるな」と思ったが、二局目に指したときは「本当に強いなと思った」と二上は述懐する。
 「今の羽生君より当時の加藤さんの方が強かった。指した手応えでわかる。<読み>がきっちりしていた。彼の読み筋からこっちが抜けられないものがあった」と二上はいう。
中平邦彦『棋士ライバル物語』主婦と生活社,1990年,185頁
将棋界に羽生善治という天才少年が出現した。
 −中略−
そんな感じたままを、羽生の師の二上に話したら、「たしかに才能はあるけれど、加藤さんの子供のころの方が、しっかりしていたよ」と、天狗になっては困る、といった口ぶりだった。
河口俊彦『一局の将棋一回の人生』 新潮文庫,1994年,202頁
 百人を越す棋士と対局したが、天才と言い切れる棋士は加藤一二三九段ただひとりである。読みが広く深く、かつ正確であった。
 対局後の感想戦では、こちらの手順まで、あらゆる変化をしっかり読み切っている。加藤さんの読み筋から抜け出せないものがあった。私は後年、十八歳の羽生善治五段と対局したが、十八歳の加藤さんは羽生に勝りこそすれ、けっして劣りはしない。
二上達也『棋士』 晶文社,2004年,136頁

山田道美プロフィール

 打倒大山を公言し、その気迫と緻密な研究で巨人大山に立ち向かって行った、幕末の志士のような気分を持った棋士。研究家として知られ、特に対四間飛車急戦の山田定跡は四間飛車の歴史に名を残した。また、当時では珍しかった、若手棋士や奨励会員を集めた研究会「山田教室」は、現在盛んに行われている研究会の原型といわれている。
 加藤とは43回対戦し15回も千日手になったという。
 他の棋士とあまり交際しない加藤にしては珍しくこの7歳年上の山田とは気が合ったらしく、クラシックのレコードを貸し借りするエピソードなどが残っている。1970年、血小板減少性紫斑病で急死した。享年36歳。

857 名前: 名無し名人 05/03/19 14:15:24 ID:CBV8/7PE
山田道美将棋著作集、第八巻より
ピンさんの勝負手

二年前の夏。ある日、ボクは加藤君と宵の銀座を散歩していた。ボクの記憶に誤りが
なければ、たしかバッハの「ロ短調ミサ」か、何かのレコードを借りるために、加藤
君を訪ねたときだったと思う。
その頃加藤君は虎ノ門に下宿していて、そこから入学したばかりの早大に通っていた。
そして、夕方になると、夕食と気晴らしをかねて銀座へ毎日のように散歩していたの
である。
銀座の人波は、久しぶりにこの都心へ出たボクを驚かして、こんなことを言わせた。

「この中に、真に生き、生きるに値する人は何人いるのかしらねー」
「いや、みんなムダ手だと思うナ」

加藤君はぽつんと言った。自分の考えをふだんあまりださない彼には珍しい言葉であった。
掲示板より

中原誠プロフィール

 18歳で四段となるや加藤と同様に4期連続昇級し、24歳で大山康晴から名人位を奪取、「将棋界の若き太陽」と呼ばれ、中原時代を築き上げた大棋士。おだやかな人柄から「自然流」ともいわれる。十六世名人資格保持者。
 加藤との対戦は1976年の第15期十段戦第2局で敗れるまで20連勝(21勝1敗)と、当初は圧倒的だった。この20連勝というのは同一カードの連勝記録かもしれない。その後加藤も盛り返し、多くの名局を残した。特に「▲5五歩」の一局(1979年第28期王将戦第5局)「▲3一銀」の一局(1982年第40期名人戦第8局)は加藤三大名局のうちの2局として有名。また、1982年の第40期名人戦第3局も加藤の代表作として名高い。
 大山に対しては自然流の異名どおり泰然自若としていた中原だが、加藤に対しては対抗心をあらわにした。そのため険悪な雰囲気の逸話も残している二人だが、今となっては良い思い出になっている、はず。通算成績は107戦して中原の66勝41敗。

 「それと別に、加藤さんは中原さんに対して闘志がわかないということはありませんか?」
 「うーん・・・・・・」
 「中原さんを、何といいますか、かわいがっておられる、というような印象があるんですけれど」
 「うーん・・・・・・だから・・・・・・ほんとはそれではいけないんですけれどもね。・・・・・・勝負というのは年齢の差がどうあろうとも、また棋力の差がある場合でも、さし迫った緊迫感が必要ですよね。その点、大山さんなんかの勝負を見ると、あの人はだれと戦う時でも、そういう面の切迫感があります。
 そうねえ・・・・・・中原さんに対しての心理としては、おっしゃるように、たしかに闘志がわかないという面・・・・・・それはあるかも知れませんね。大山さんが中原さんに悪い原因も、そういう所にあるのかも知れませんね。他の棋士に対する時とはだいぶ違うのではないかと考えられます」
東公平「自ら明かす加藤将棋の全容」
朝日新聞学芸部編『第三十二期将棋名人戦』朝日ソノラマ,1973年,150頁
 今期七番勝負開始にあたって、加藤十段は率直にこう語っている。
「五十一年と五十二年、中原さんとの十段戦で、負かされたことが有益だった。中原さんの強さとその長所がよく分かった。それまではただ戦うだけで、どうして負かされるのか分からなかった。強さの秘密が分かって、作戦が立てられるようになり、それ以後は勝ち越している」(毎日新聞、四月六日夕刊)
井上光晴・第ニ局観戦記 毎日新聞社『第四十期将棋名人戦』1982年,34頁
 これまでの加藤は中原将棋がさっぱりわからず、戦っては敗れていた。負けながら、加藤はしきりに首をひねった。
 ――なぜこう負けるのか。どうして中原さんは強のか。わからない。わからない。
 その疑問が不安を呼び、疑心暗鬼を招いて負け続けた。それがふいに解けたのである。
 どう解いたのか。いかにも加藤らしい理解の仕方であった。
 ――ああ、中原さんは強い。そうか、こんなに強い人だったのか。
 それを身体で悟ったのである。相手の強さを知れば、ひるんだり恐れたりするのが普通である。だが加藤は、強さがわかって安心をしたのだ。加藤は中原を理解した。
中平邦彦『敗局は師なり』講談社,1987年,200頁
 昭和五十二年一月十一日。
 秋に始まった激闘は年を越し、対局場は東京の将棋会館であった。
 特別対局室の床の間に、正月にファンから贈られた大ダルマがあった。下座の加藤からはよく見えて気にかかった。
 そのとき「あのダルマをどけましょうか」と中原が言った。
 棋士生命をかけた一局。どちらも是が非でも勝ちたい。それなのに、相手のためにどけようという思いやりである。
 加藤は感動し、感謝した。そして中原の大きさを改めて思った。加藤は公演のとき、このエピソードをよく語る。
中平邦彦『敗局は師なり』講談社,1987年,201頁
 中原は加藤との王将戦挑戦者決定戦のとき、時間のない加藤が小用に立とうとした瞬間に「指しますよ!」と声をかけたと、スポーツニッポンの松村記者から聞いた。大名人の貫禄、ゆったりとしたユーモアも身につけてきている。
能智映『愉快痛快棋士365日』 日本将棋連盟,1982年,200頁
 一日目終了後、加藤九段が注文をつけた。立会人の松田茂役八段(当時)に「対局室の敷き物の色が強すぎるので、明日は外してほしい」と言うのである。十数畳の和室の中央部に濃紺の敷き物が敷かれ、その上で対局が行われるようになっている。そう言われれば色が濃すぎるような気もするが、宿のおかみに聞くと、「もう何年も同じ敷き物でやっているのですが」とのこと。
 両対局者が合意すれば、外すことは何でもない。そこで松田八段が中原十段に聞くと「ちょっと考えさせてください」と言う。しばらくしてからの返事は「私はこれで慣れているので、取らないでほしい」というものであった。
 −中略−
 加藤九段も「中原さんがそう言うなら仕方ありません」と納得、敷き物はそのままに二日目も対局が行われた。結果は中原十段の勝ち。気合勝ちだったといえよう。
 −中略−
 この期の十段戦あたりから二人の対抗心は激しさを増していく。終盤必ず秒読みになる加藤九段。中原十段が考えているのでその間にトイレに行こうとして立ち上がると、中原十段は、そうはさせじと、ピシリと指すのである。加藤九段はドタドタと足音も高く、息せききってトイレを往復。それをクールな目で見すえる中原十段。
山田史生『将棋名勝負の全秘話全実話』 講談社+α文庫,2002年,155頁
(1977年度第16期十段戦での話)
13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/09/05(火) 00:26
有名なこだわりでは
盤が畳の目に沿ってないと気になる
ネクタイは出来るだけ長く結ぶ
あと何秒?って何回も聞く
対局時の食事は何年もいつも同じメニュー

将棋盤の位置に関してのエピソードでは数年前、一室で3組並んでの
対局で中央の加藤九段が窓際寄りに盤を寄せてしまったせいで
窓寄りでの対局だった中原永世十段の盤が更に窓辺に追いやらせてしまい
入室してそれを見た中原先生が加藤先生を
「そんなに窓に寄せたたら私は日光で眩しくて指せないだろう!!」
って怒鳴りつけたって事件があったそうです。
掲示板より
16 :名無し名人 :04/10/07 22:40:04 ID:4s8o7aFc
対局の時(中原対加藤ではない)、加藤の盤が凄くスペースをとっていた。
中原が対局開始前、加藤に『少し盤の位置をずらしてよ』
そして加藤『もう決まったことですから』

それのまま対局開始。
しかしなんと中原、対局中加藤のところへ行き
『やっぱりおかしいよ』『喧嘩売るの?売るんだったらそれで良いよ』
掲示板より
 1月14日、竜王戦で中原永世十段との手合がついた。(中略) 生憎、交通事情が悪く対局室に入った時は定刻を3分過ぎていた。(中略) 隣に加藤一二三九段が井上慶太八段と対座している。
 入室した際に、視覚的にはほんの一瞬だけ加藤が部屋の中央近くに位置しているようにも感じられたが、全くといってよいほど気にも留めなかった。
 中原の▲2六歩で始まり私は指しなれた四間飛車を採用した。
 異変はここから始まった。7手目急に中原が考え込んでしまったのだ。
 −中略−
 よし何でもやってこい、こちらも負けてはいないぞ!と久々に序盤から気合が乗ってきた。ところが中原の次の一手は私の棋士生活26年で最も意表を衝くものであった。
 やにわに立ち上がった中原は、加藤の方に近寄りながらこういったのだった「加藤さんやっぱりおかしいよ」続けて「もう少し盤を向こうへ動かして下さい」。
 私はびっくりしながらそちらを見れば、確かに部屋の6割ほどの面積を、あちらは占拠しているようだ。加藤にしても意外だったのだろう、無言である。
 席に戻った中原は「一日中、気分の悪い状態でいるわけにはいかない」と呟き、「そっちも大事な将棋だっていうのは分かるけど、こちだって竜王戦なんだ」。加藤−井上戦はA級順位戦である。
 「50センチ、50センチでいいから動かしてよ」。文章では激しい言葉づかいに思われるかもしれないが、あの泰然とした中原の言動だけにどうしたって険悪な感じにはならない。ただ、あの中原にしての振舞いだけに、逆に迫力があるともいえる。そして続いての一手には、私の曲がった腰椎が思わず伸び切った。
 「加藤さん喧嘩を売るの、喧嘩を売るんだったらそれでもいいよ」。大広間は静まり返った。大名人のさすがの迫力に、神武以来の天才も苦笑を浮かべながら手を振って「いやいや、そんな他意はありませんよ」と穏やかに応じて、盤の位置をズラして場は丸く収まった。
 遅刻してきた私は知らなかったのだが、この出来事には前哨戦があった。
 定刻に入室してきた中原は、二つの盤の位置取りが不自然であると直に感じ、そして加藤に少し動かしてくれないかと話したらしい。ところが加藤は、もう決まっていますからと応じなかったようだ。その時は中原も、まあ仕方がないかと思いそれ以上主張しなかったのだが、時間が経つにつれ、次第にやはりこれはおかしいと思い始め、先の行動に及んだのである。(中略) 終局後、中原と話したのだが中原は「あんなことがあったけど僕は加藤さんになんの悪気もないのを知っているし、彼のことを好きなんだよ。4、5日は変な気分が残るだろうけど、それで後は何でもないんだ」と屈託ない笑顔で述懐していた。
真部一男「将棋論考」 日本将棋連盟『将棋世界』1999年3月号,82頁

米長邦雄プロフィール

 機知に富んだ言動とオランウータンにも似た整った顔立ちで人気を博した名棋士。人柄は「さわやか流」将棋は「泥沼流」といわれた。1943年生まれ。加藤より3歳年下で、A級昇級は加藤より13年遅い1971年。タイトル戦での対局は第4期棋王戦、第20期十段戦の2回と意外に少ないが、加藤の最強のライバルといわれた。米長の挑発などもあり、二人は仲が悪いと思われているが、互いに相手のことを認め合っているらしい。「強敵」と書いて「とも」と読むような関係か。通算では102局対戦し、米長の62勝40敗。

[米長邦雄の逸話集]
・1943年山梨県増穂町生まれ。5人兄妹の四男として生まれる。
・1955年佐瀬勇次名誉九段門。63年四段に。デビューからいきなり6連敗。もちろん前代未聞の新記録。
・1970年のB級1組順位戦最終戦で、当時の最年長A級返り咲き記録を目指していた大野源一を破りヒールとしての地位を不動のものにする。
・1973年、棋聖戦で有吉道夫を破り、初タイトルを獲得。しかし翌年、内藤國雄に奪われると、その後タイトル戦8回連続挑戦失敗という記録を作ってしまう。
・1984年、棋聖、十段など獲得タイトルも増え、棋士としての全盛期を迎える。タイトル戦の打ち上げ時に浴衣で登場、お酌をしてまわる芸者さんが自分のところに近づくと、おもむろに浴衣の裾を開く。 そこには超弩級のリアル米長玉が。あまりの大きさに驚いて腰を抜かした芸者さんも いたという。もろちん犯罪。
・1985年、鳥取砂丘での全裸ヌード写真を週刊誌に発表。もろちん棋士としては史上初の快挙。
・1988年の第1期竜王戦で島朗にストレート負け。ホテル内で失意のフリチン全力疾走を敢行。こちらも史上初。
・1990年、南芳一を破り王将復位。弟子の先崎学(現八段)らと歓喜の裸踊り敢行。
・1992年、A級順位戦出だし3連勝も、谷川との全勝対決に敗れる。「悔しい!」と叫びながら将棋連盟5階から放尿を試みるも、先崎らに止められる。 別に酒は入ってない。
・1993年、7度目の挑戦で悲願の名人位に。49歳11ヶ月での獲得は史上最高齢。妻に電話を掛け「帰ったらお○○○しよう」。4-0のストレートで敗れた中原名人は、対局中に米長から林葉との不倫の一件を持ち出され、動揺したという噂も。
・1998年、文化放送でラジオ番組を担当する(1年間。月〜金の10分間)。朝から不倫の話や自らの女性遍歴を赤裸々に開陳。 タイトルの「米長邦雄・人生さわやか流」などあって無きが如しの泥沼流炸裂。
・この頃、自宅の菜の花畑を森内俊之(現名人)に「立派なレンゲですね」と言われてヘコむ。
・2003年の王将リーグを最後に引退。最後もデビューと同じく6連敗で終える。その後、天皇陛下にも奇襲戦法を試みるもあっさり敗れる。
・通算1103勝800敗。タイトル獲得は19期。挑戦失敗20回というある意味不滅の大記録も残している。棋士としては天才。人間としては紛れもなく変態。

 さて昭和五十六年(1981)の十段戦の挑戦者として名乗りをあげたのは米長邦雄九段(当時棋王)である。私が担当になって初めて中原抜きの十段戦。中原−加藤の対決でもいろいろ張り合ったが、ひとくせもふたくせもある米長の登場は、また違った張り合い方があって興味深かった。
 対局前の談話で米長は自ら「今回は奇人と変人の対決です」と語った。どっちがどっちですか、と聞く私に、米長は「私が変人で、加藤さんは奇人でしょう」と言う。
 −中略−
 対局中、加藤十段はクセのことをいろいろ言われたり書かれたりしているので、最初は注意しているような様子だったが、中盤以降はやはり集中してくると周りが見えなくなる。トイレへ行き、帰ってきたついでに米長のうしろへ立ち、腕を組んで盤面を見る。すると米長は座ったまま下から加藤の顔をじっと見上げるのである。目と目が合い、われに返った加藤は慌てて自席に着く。
 また終盤、加藤が大きなセキ払いをすると、米長は負けじと、それより大きいぐらいに「ギャハン、ゴホン、ギャハン」とセキ払いのお返しをする。加藤は驚いて米長の顔を見る、するとやや斜め上を見上げて知らん顔をする米長。
 昼食休憩が終わり対局再開、すぐ「ケーキにホットミルク、それにりんごをお願いします」と言う加藤に対し、米長は「みかんをお盆に山盛り持ってきて」と言い、みかんの皮をむくや、一個の半分ずつを口の中へほうり込み、あっという間に、五、六個食べてしまう。食べるほうでも負けてなるものかとの対抗心である。
 −中略−
 昭和五十六年(1981)の「加藤−米長」による十段戦が佳境に入っていた十一月下旬のある日、私が将棋会館へ行くと、米長九段が「山田さん、聞きましたか。あの加藤さんが怒ったんですよ」とうれしそうな顔をして話しかけてきた。
「えっ、何があったんですか?」と聞く私に、米長九段自ら、こと細かに説明してくれたのである。
 実はこの日、名将戦の準決勝があり、加藤と米長が対戦していた。それを見た関根八段(当時)が、あいさつがわりに「お二人さん、よく顔が合うね」と声を掛けると、すかさず米長九段が応じた。
「気は合わないけど、顔は合います」
 居合わせた数人の棋士たちが、どっと笑い、関根八段が「うまいこと言うね」と感心すると、普段は何を言われても、何をされても無関心を装う加藤十段が、このときは、きっとなって怒り顔で言った。
「そんなに感心するほどのことはないでしょう」
 しばしば加藤のクセに神経を使わされている米長は、何とか逆に加藤に反応させたいと心中思っている。それがこの日、珍しくすんなり怒らせることができ、うれしくてわざわざ話してくれたのである。
 −中略−
 とくに米長は自信、自己顕示欲、気持ちの高揚度も最高潮にあったのだろう。私とトイレで一緒になったときなど、用をすませた米長は、自分の一物を、ぐいと私のほうに向け「どーだ」とわめくのである。二度ほどそのようにして一物を見せつけられたものだが、「どーだ」と言われてもこれはまた批評しにくい。
山田史生『将棋名勝負の全秘話全実話』 講談社+α文庫,2002年,168頁
米長 ぼくの一番の親友は、関西では内藤國雄、関東では加藤一二三なんです。加藤さんとぼくは、仲が悪いと思われているみたいだけど、そんなことはないんだ。
 −中略−
加藤さんとぼくは、戦友であり親友。盤をはさんでどんなに泥沼の戦いをしても、お互いのことをよき理解者だと思っているんですよ。
内藤國雄・米長邦雄『勝負師』 朝日選書,2004年,74頁
788 名前:名無し名人 投稿日:2005/05/25(水) 03:49:50 ID:OzAa00K0
実際に123のことを罵倒してたのは※というより大内だけどな。
「相手の駒を触る」「空咳」「対局中に動き回る」「鼻をすする音がうるさい」「飯喰い杉」
「あと何分うるさい」「後ろに回り込まれたときにネクタイが当たって感じる」「とにかく対局態度が悪い」
…ということを理事会で取り上げたのも大内だし。
※は罵倒したり怒ったりというより、123をおちょくって遊んでいた。

123と※が当たった十段戦のこと。「おやつは何にされますか」という係の者の問いに
123:「あっ!ええ!ミカンをお願いします!皿に一杯で!ハイ!」
※:「加藤さんと同じものを。量は加藤さんのより多くしてね」
…昼下がり、対局場に運ばれてきた信じられない量のミカン。黙々と食べ始める123。
1日目ということもあり局面の流れも緩やか。狂ったようにミカンを食べる123に、ついに※も反撃開始。
123に負けないペースでミカンを食べ始める。時間にして2時間以上、指し手も適当にミカンを食べる
両対局者。とうとう堪えきれなくなった記録係が別室にいた立会人に「部屋がミカン臭くて死にそうです」。
立会人が慌てて対局場に駆けつけると、そこには大量のミカンの皮と、顔と手を黄色にした対局者が…!
「ちょwwwwwおまいらwwwwwミカン食いすぎwwwww封じてください」
こうして初日の対局はなんとか終了、この十段戦はミカンの食いすぎでおかしくなった※が負けた。
掲示板より (管理人注:”※”とは米長のこと、”123”とは加藤のこと)

内藤國雄プロフィール

 洒脱な人柄と力強い将棋でファンを魅了しつづける関西の大御所。「横歩取り空中戦法」は升田幸三賞を受章した。詰め将棋作家としても有名。同じ関西の有吉九段とは激しいライバル関係にある。奨励会二段当時、有吉四段に「君の将棋は僕の三級自分の将棋によく似てるわ」と言われたことが発端だという。三段のときに奨励会の制度改革のため対局がつかない時期があり、その間プロの歌唱指導を受け、後に歌手デビュー。1976年の「おゆき」は大ヒットした。
 加藤とは同い年。内藤が六級で奨励会に入会した時には加藤はすでに三段だったので普通は手合違いで対局しないのだが、一度だけ加藤と飛車落ちで対局し結果は引き分け。もし内藤が勝っていれば加藤の最年少四段はなかったかもしれない。

 関西奨励会で一緒だった私は、当時の加藤氏が感想戦で「こう指すのが自然だね」とか「どう指すのが自然かな」というのをよく耳にしたものだ。少年でそんなことをいう者は他におらず、珍しいことを言うものだと印象に残っている。そして加藤氏はその言葉を裏付けるように、たのまれた色紙に「棋は調和なり」と好んで書いていた。まだ十五〜十六のときに。
 現棋界で、攻守ともに最もバランスが取れているのは加藤八段だ。見方によれば、加藤八段こそ自然流そのものなのである。
内藤國雄「ヤグラの攻防、全局の焦点」
朝日新聞学芸部編『第三十二期将棋名人戦』朝日ソノラマ,1973年,116頁
 それは今から四十年近く前のこと。加藤一二三が十八歳でA級八段に昇り、「神武以来の天才」と騒がれたのち名人戦の挑戦者になったときである。報道陣が詰めかけ、テレビカメラが加藤さんに向けられた。当時将棋界のことがマスコミに取り上げられることは殆どなく、ましてテレビで放映されるということはなかったから、「えらいもんだねえ」と先輩棋士達が感心していたのを覚えている。
 加藤さんは私と歳は変わらないが(私の方が一か月早く生まれている)将棋の方では大先輩。プロの養成機関である奨励会に私が六級で入ったとき、加藤さんはすでに最上級の位置三段にいていわば雲の上の存在であった。
 手合が違い過ぎるのだが、一度だけ飛車を下ろしてもらって戦う機会があった。それが終盤で混戦になり、外が暗くなっても終わらない。残っているのは二人だけである。だれも見ていないのを幸いに「もうやめようか」ということになり、駒を片づけると二人で夜道の帰りを急いだ。そのとき加藤さんが話してくれた言葉がずっと心に残った。
 「ボクはね、いつも八割の力を出すように心がけているんだ」
 私は驚いた。皆が100パーセントの力を出し切ろうと汗水たらして必死になっているのに、これはなんという余裕だろう。自分と同じ十四歳の子供がこんなことを考えているとは・・・・・・。凡人には到底真似のできることではない。
 しかしそれで納得出来たことがある。
 当時連盟には冷房がなく、真夏には暑さにうだりながら戦っていたが、加藤さんのまわりだけは涼しさが漂っている。いつも不思議な気がして、天才とは涼しいものなのかと思っていたが、それは加藤さんの余裕のある対局態度から生まれていたのである。
 のちに加藤さんは120パーセント主義に変更し、涼しさは何処かへ行ってしまうのだが、それは余談。
内藤國雄『私の愛した勝負師たち』 毎日コミュニケーションズ,1996年,181頁

大内延介プロフィール

 「江戸で振るのは大内延介」と言われる振り飛車党。一時期加藤を目の敵にしており、「空咳をするな」「ズボンをずり上げるな」「相手の後ろに回りこむな」「何度もトイレに立つな」などなど加藤の対局マナーに注文をつけた(大内延介4つのお願い)。これが加藤の奇行が世に広まるきっかけとなったとも言われている。
 このような経緯から加藤贔屓筋からは評判は良くないが、実態はお人よしでおっちょこちょいで気風の良い江戸っ子といったかんじで、後輩や弟子の面倒見も良いらしい。故山田道美九段とも気が合わなかったそうなので、山田や加藤のような洋風好みのインテリ風とは元々肌が合わないのだろう。それでいて将棋の起源を研究して世界中を旅するなど知的な面ももっている。

大内 あるとき加藤さん(一二三九段)には、「名人戦のときは、ザルソバなんかではなく、ステーキのようなスタミナのつくものを食べなさい」と、食事の面でアドバイスされました(笑)
「名人戦フラッシュバック1975」 日本将棋連盟『将棋世界』2002年7月号,56頁
 大内延介九段などは「あのセキ払いは気になってしょうがないので、やめさせてほしい」と理事会に申し入れたと聞いた。「気にしては損だとわかってはいるんだけど、気になるのだからしようがない」とぼやく。
山田史生『将棋名勝負の全秘話全実話』 講談社+α文庫,2002年,167頁

田中寅彦プロフィール

 「私は序盤で悪くなったことはありません。それでも勝てないのは相手が投げてくれないからです」という序盤戦術の大家。別名「序盤のエジソン」。
 執筆活動も精力的にこなし、加藤のことを面白がっているような、尊敬しているような文章を書いている。特技は不動産投資。

しかし加藤さんはめげない。五十九歳の現在まで、羽生をはじめとする孫のような世代の相手にも一歩も譲らぬ気迫で、第一線を戦い抜いている。
まさに勝負師の鑑、あの集中力は私のバイブルでもある。
田中寅彦『百人の棋士、この一手』 東京書籍,2000年,112頁
「島君、この局面で後手を持って一生懸命考えられる棋士は何人いるかねえ」
(劣勢の局面でも一心不乱に盤に向かう加藤を評して。ちなみに島は早投げで有名)
「(棋士として)あるまじき行為」
(待った事件に関しての理事としての公式コメント)

谷川浩司プロフィール

 十七世名人資格を持つ関西の大人気棋士。1976年に加藤以来22年ぶりの中学生棋士となり、以後順調に昇段を重ね1982年には23年ぶりに十代でA級八段、翌1983年の第41期名人戦で加藤が22年かけて獲得した名人位を奪取、史上最年少名人となる。
 その後の対局で、加藤は谷川名人を差し置いて上座に座っちゃって、谷川が「私の座る場所がない」と憤慨する事件があったりもした。

 昭和五十八年に最初に名人になった翌年、最初の防衛戦を戦っていた頃のことである。
 名人というのは将棋界では最も権威のあるタイトルで、名人位をもつものは一番強いとされているので、対局の時には、名人が上座に座るというのが慣例になっている。そこで、当時私は二十二歳という若さだったが、歳に関係なく名人である私が上座に座るものと私自身だけでなく、将棋界全体が思っていた。
 ところが、私が対局室に入ろうとして、ふと見ると、相手の先生が上座に座っておられたのだ。大ベテランの先生だから、それなりの考えがあったのであろうが、将棋は礼を重んずる世界である。何百年と続いている名人位の権威を汚すことにもなるわけで、「これはおかしい」と思わずカーッとなってしまった。だからといって、先輩の先生に対して、後輩の私が「そこをどいてください」というわけにもいかない。
 そこで、部屋に入るのをちょっとやめ、いったん手洗いに行って、手を洗ったりして頭を冷やすことにした。頭に血がのぼったまま指すのは、失礼なことになってしまうからだ。しかし「これはおかしいのではないか」という思いは消えない。対局を放棄するわけにもいかず、そのまま対局室に戻って、黙って下座に座った。
 そして私が先手番だったので、初手を指すのに十分間ぐらい考える時間をとったのである。普通、初手は開始と同時に指すのだが、間を置いたのである。十分もたてば、いろいろ考え、怒りもおさまってくる。「怒りを一日中持ち続けられるならば、ずっと怒っていたほうがいい。しかし、ずっとそんなに怒っているわけにはいかない。冷静に指して、相手に勝つのが一番だろう」というふうに気持ちを整えたのだ。
 勝負師にとっては、勝つことが大前提である。心を乱されて負かされるというのは面白くない。冷静になることで、目の前の相手をやっつけて気持ちを晴らすほうが得策だ。冷静さを取り戻した十四時間後、私は勝利を収めることができた。
谷川浩司『集中力』角川書店,2000年,61頁
 しかし、自陣のほうからだけ盤上を眺めていると、どうしてもなかなか相手の立場に立って局面を見ることはできない。そうかと言って、相手の後ろに立って覗きこむというのはマナー違反だ。
谷川浩司『四十歳までに何を学び、どう生かすか』 PHP研究所,2003年,153頁
 『天才というのは涼しげである』。それはやはり、勝つことだけに精一杯で見苦しく余裕を失いがちな周囲の奨励会員に比べて、加藤先生は勝敗にこだわらない人間的なゆとりを漂わせていたということなのだろう。努力をしてもそれを人に気づかせないような、余力を感じさせる面もあったのではないだろうか。
 何歳になっても、そうした心の余裕は失いたくないものである。
谷川浩司『四十歳までに何を学び、どう生かすか』 PHP研究所,2003年,196頁

羽生善治プロフィール

 将棋界の第一人者。1985年に加藤・谷川に次ぐ3人目の中学生棋士となって以来常に注目を集め、1988年度の第38回NHK杯将棋トーナメントでは大山・中原・加藤・谷川の名人経験者4人を倒して優勝、1996年には将棋界の七大タイトルを全て制覇するなど、その活躍は一種の社会現象にもなった。
 加藤との対局はその第38回NHK杯が羽生マジック(▲5二銀)の一局として有名。近年では両者の対局はほとんどなくなってしまったが、加藤がタイトル戦の立会人を務めると、羽生はすごく楽しそうになるらしい。

いままでにも、旅館の滝を止めてもらったことがある。羽生善治四冠は同じ対局場に行ったとき、係から「加藤先生は滝を止められました」と聞くと、「私もそうしてください」と言ったという。
加藤一二三「加藤一二三の大勝負この一手」日本放送出版協会『NHK将棋講座』2005年5月号
一番大きな動きで没頭するのが羽生四冠。次が私で佐藤は三番目の大きさになる。
加藤一二三「第四十六期王位戦観戦記」 『中日新聞』2005年
私は4月22日に王位戦の観戦をした。佐藤康光棋聖対富岡英作八段の観戦記を書くためであった。
 −中略−
佐藤棋聖も動きのある棋士なので、動きのある順位は、羽生四冠が1位、私が2位、そして佐藤棋聖が3位と書いた。もっとも羽生四冠は動きをする将棋は少なく、名人戦の立ち会いをした第5局ではひたすら前に体を傾けて静かに読みに没頭していたので、私が1位とすべきかもしれない
加藤一二三「加藤一二三の大勝負この一手」日本放送出版協会『NHK将棋講座』2005年8月号
 対局中には、相手のテンションの高さに「とてもかなわない」と思うこともしばしばある。有吉道夫先生と加藤一二三先生はその代表だ。お二人とも六十歳を過ぎているけれど、対局中は、「やるぞ!」というファイトが内から沸き上がっている。駒を盤上に置く手つきも力強く、パシッと打ってくるのだ。
羽生善治『決断力』角川書店,2005年,116頁
 加藤先生はもう三十年ほどまったく同じ形の将棋しか指されない。食事もいつも同じものを注文なさる。違う食事を注文した日には、将棋会館に衝撃が走る。「今日は鰻じゃなくて寿司を注文したぞ」と、一日中話題になるのだ。持続できることはすごい。同じことを貫くには、非常に強い意志と精神力が必要だろう。
羽生善治『決断力』角川書店,2005年,138頁
 今でも、オリジナルな将棋を指したいという気持ちに変わりない。しかし、三十歳を過ぎてからは、「いい棋譜を残そう」「後世の人に評価してもらおう」という気持ちはなくなった。
 もちろん、長い間、いい棋譜を残そうと続けている人は尊敬している。たとえば、六十歳を過ぎた今も現役として活躍している加藤一二三先生は、棋譜を大事にされ、いつも長考を重ねておられる。その集中力は普通の人にはとても真似られない。同じ事を何十年と貫くには、大変な精神力と意志の強さが必要だ。それはそれですごいことだ。
羽生善治『決断力』角川書店,2005年,189頁