【棒銀一筋】加藤一二三の魅力【神武以来の天才】

[最終更新日:2007年2月11日]

その他

カトリック (2005年9月18日更新)

1970年のクリスマスに下井草教会にて受洗。聖イグナチオ教会所属し、結婚講座の講師を務める。洗礼名はパウロ。
1980年は名人挑戦者になれなかったので聖地巡礼の旅に出る。バチカンにも行き教皇に謁見。1986年には聖シルベストロ騎士勲章を授与される。

 加藤さんに何故にカトリックに帰依したかと訊ねると、彼は、自分は常に最善手を求めているが、人生において、カトリック信者になることが最善手であると思ったからだと答えた。この答え、実は答えになっていない。誰だって最善手を求めていると言えるのだから。ただ、加藤さんがそういう考え方をする人であり、そう考えているということは、かなり重要であると思う。
山口瞳『続・血涙十番勝負』講談社,1974年,42頁

クラシック音楽

モーツァルトやベートーヴェン等の古典派音楽が好きらしい。第40期名人戦のときは対局直前にモーツァルトのレクイエムを聴いて気持ちを落ち着けたという。

師匠変更事件 (2006年8月14日作成)

元の師匠は南口繁一 九段であったが、1998年に剱持松二 八段に変更した。棋士が師匠変更するのは極めて異例。理由は定かではないが、金銭トラブルなどが噂されている。棋士の間では結局のところ”天才の胸中は計り知れない”ということで落ち着いたらしい。
ちなみに、弟子の筆頭格ということで剱持門下となっているので、例えば橋本崇載の弟弟子ということにはならない。むしろ三段時代の橋本は加藤の使い走りとしてケーキ3個を買いに行っていたりする。

 私は故大山十五世名人と、123局対局している。名人戦や十段戦等の大勝負も数多く対局して、私の代表的な将棋もたくさん生まれている。大山名人と私が激闘を重ねていく過程で、教えられるところが多くあって、私にとって師という面があった。
 また升田実力制第四代名人と私は、50局程戦い、その厳しい将棋に大きな影響を与えられた。升田名人も私にとって、やはり師と呼べる面があった。それから二上九段と私は、互いに若い頃から情熱を傾けて対局し、100局近い将棋を指している。熱戦をくり返す中で、私は二上九段から多くの事を吸収させてもらった。
 私が子供の時、奨励会に入会する時の事は連盟の規則に従って、親が勝手に決めたことで、師匠に将棋その他のことで全く指導を受けなかった。名目上の事で、実際の師弟関係はなかった。
 私は妻の親戚の中学校の校長先生の家に寄留し、高校まで卒業したが、中学・高校時代に妻と友情を深めていった。そして妻との交際が私にとって精神的な大きな励ましとなって、私は成長していった。
 私は若くして妻と結婚し、妻の助けを得て人生を築き上げて行った。私の将棋人生は、はじめから今日にいたるまで、妻の強力な助けがあって歩んできたものである。にも拘わらず、私の経歴にあたかも師弟関係があったかのようにあつかわれて、私は迷惑をかけられてきたし、不名誉な思いもしてきた。妻及び妻の親族にも、長年不名誉な思いをさせ、迷惑をかけてきた。そこで今回反省の意味をこめて、誤りを正しけじめをつける事によって、私と私の家族の名誉を守る決意をした。
 新師匠の剱持松二八段と私は、長い信頼関係がある。剱持八段の師匠の故荒巻八段は、ご家族が私と同じキリスト教徒で、またお子様の大学が私の子供と同じ上智大学だったので、先生のご生前私は敬愛の念を持って接していた。その荒巻八段の縁で、私は新師匠として剱持八段にお願いをした。
加藤一二三「わが激闘の譜」 日本将棋連盟『将棋世界』1998年8月号,180頁
 私は関西の奨励会に入会して、都茂の親戚の中学校の校長先生の家に寄留して、高校まで卒業した。学生時代に私は妻と出会い、友情を深めていった。私が妻にノートを借りて、勉強の上でも大変助けられた。私にとって、妻との交流が精神的な大きな励まし喜びとなって成長し、八段になった。私は高校を卒業する頃に、聡明で美しく、優しい妻と結婚したいと強く望んでいた。
 また早稲田大学に入学したので、東京に移った。私が奨励会に入る時の師弟関係は、親が勝手に決めた名目上のことで、私は師匠から将棋その他のことで一切世話にならなかった。私の師弟関係は無関係で、無効であった。にも関わらず私の経歴上、あたかも関係があったかのように扱われて、不名誉な思いをしてきた。また妻と、妻の親戚の人達に長年にわたり不名誉で不快な思いをさせてきた。
 私が朝日新聞に入社するに当っては、実力制第四代名人升田先生の引っぱりがあった。私は升田先生を事実上の師匠と思っていたので、東京に移った時に公式に升田先生を師匠としておくべきであった。それをしなかったのは私の誤りでかえすがえすも残念である。
 私の将棋人生は、はじめから妻の強力な助けを得て築き上げたものである。また私達は名誉を重んじて、誠実に生きてきた。(中略) 私は不名誉であったことを明らかにして、築きあげてきた名誉を守るべきだと痛感するに至った。また人生の中で、大変ご恩になった方々に、あらためて深く感謝したいと考えた。
加藤一二三「わが激闘の譜」 日本将棋連盟『将棋世界』1998年11月号,172頁
384 名前: マリオ 投稿日: 2000/09/19(火) 18:21
re:379
「逆破門」か・・・表現がきびしいですね(^_^;
以下は、私の知ってる客観的な状況です。

南口繁一九段は、京都で将棋道場を経営し、京都新聞の嘱託として永く将棋欄の
執筆を担当しており、将棋連盟の理事を歴任したこともありました。

こうした縁で、加藤一二三九段、伊藤果七段、滝誠一郎七段、森信雄六段などの
などの師匠を頼まれたんだと思います。話題の村山聖九段は孫弟子です。

伊藤さん(当時は喜和という名だったかな)は17歳で三段になった天才です。
しかし三段リーグは東西決戦があり、四段昇段は年間2名という狭き門のため、
四段になれぬ日々が続き、心機一転大阪から東京へ移籍したのです。

改名などにも凝ってましたから、同じような気持ちで門下を移籍しようと考え、
南口九段も、「師匠ってのは何のメリットもないから別に構わないよ」くらいの
気持ちで、それを許したのではないかと推察しています。

南口九段は現役中に脳梗塞(だったと思います)で倒れ、永い闘病生活を送り、
77歳でお亡くなりになりました。

加藤一二三九段が南口門下でなくなったのは師匠の死後のことで、確か将棋世界誌に
「門下生である故に迷惑を被った」旨の原稿を書いておられました。

迷惑とは、どうやら師匠の葬儀・およびその後の処理等に関わる煩わしさのようで、
この時期、加藤さんは母校・早稲田大学の将棋部OB会へも絶縁状を出していますから、
何か思うことがあって、過去の人間的しがらみを清算したかったのではないでしょうか。
掲示板より

待った (2005年7月17日追加)

2005年5月26日に囲碁・将棋チャンネルで放映された第13期銀河戦の対阿部隆戦で、加藤は一度叩きつけた駒を再度持ち上げて叩きつけるというまぎらわしい指し方をした。この行為に対して、視聴者から抗議のメールが10通ほど殺到、これを重く受け止めた将棋連盟はビデオで状況を確認、「待った」があったとして次期銀河戦の出場停止、および対局料の没収という異例の処分を下した。対局結果に関しては投了を優先し、加藤勝ちのまま。

参考リンク:勝手に将棋トピックス, CATVジャンキー