【棒銀一筋】加藤一二三の魅力【神武以来の天才】

[最終更新日:2008年5月6日]

新聞雑誌等4

734 名前:名無し名人 :2007/05/13(日) 18:33:53 ID:DbzaQbfd
NHK将棋講座 昭和58年4月号  巻頭カラー

思い出の場所  名人 加藤一二三

東京の千代田区にあるカトリック麹町聖イグナチオ教会。
この教会は、将棋会館のある千駄ヶ谷に近いので、この教会のミサにはよく行きます。
昨年の名人戦はもつれました。
最終の第十局は将棋会館で行われましたが、7月30日、31日の早朝、対局を前にこの教会のミサに行ったことを思い出します。
朝のすがすがしい空気の中で、「よい将棋が指せますように」と、わたしは神に祈りました。
「勝敗は時の運」といいますからしかたがありませんが、棋譜はあとに残るものですから、
恥ずかしくない立派な将棋を指せることだけを神に祈ったのです。
対局2日目の7月31日午後9時すぎ、名人戦はわたしの逆転勝ちで終わりました。
名人戦最終局の対局日に、聖イグナチオ教会の早朝ミサで神に祈った思い出は、いつまでも忘れることはできないでしょう。


735 名前:名無し名人 :2007/05/13(日) 18:43:53 ID:DbzaQbfd
NHK将棋講座 昭和58年4月号  82頁〜

駒に魂をこめて  名人 加藤一二三
清く正しく  九段 原田泰夫

名人位は別格

世の中には名人の称号を持つ方も多いが将棋会のプロの名人ほど評価の高いものはないのではないか。
対局の席次は現役の名人が最高峰である。
歴史と伝統、名人位にまさるものはない。
慶長年間、秀吉時代の一世大橋宗桂名人から、十三世関根金次郎名人まで世襲が続き、
昭和10年、関根名人の英断により短期実力制名人制度が実現し今日に及んでいる。
原田が加藤治郎名誉九段の内弟子入門14歳当時、木村義雄第1期名人が誕生した。
当時は1期が2年、現在は1期1年「陽春の名人戦」はタイトル戦の精華、ファンが話題にすることはもちろん、
将棋を知らぬ人達にも社会的ニュースになる。

736 名前:名無し名人 :2007/05/13(日) 18:57:14 ID:DbzaQbfd
42歳の加藤一二三名人の誕生。昭和57年7月31日夜、105手で中原名人に勝ち第40期名人を手にした。
名人決定七番勝負は持将棋1、千日手2をふくめて史上最長の十番勝負になった。
主催の毎日新聞と将棋連盟には、対局終了まで電話で、「次はどう指したか、どちらが有利か、勝ちそうか、何時終わるか」
などの電話が殺到した。へたに応対すればどなられるので電話当番は大仕事であった。
千駄ヶ谷の将棋会館が対局場、最後の観戦記担当で印象が強烈である。
35歳の中原名人に加藤十段(当時)の挑戦、対局前から互角の熱戦が予想された。
名人、と呼ぶ音感がいい。名人位だけには「推戴状」、他のタイトル戦優勝者には「贈位状」が本部から手渡される。
唯一の推戴状は別格である。
将棋界のアマ免状は日本将棋連盟の本部から時の会長と時の名人が署名する。幼−少年時代に棋界入り、
だれしも名人位をめざし名人位にあこがれる。
18歳で八段、「神武以来の昇段記録」を持つ加藤が、42歳で新名人、どんなにか満足であったことか。
本人はもちろん、ご家族、師匠、ファンのお喜びを察する。

737 名前:名無し名人 :2007/05/13(日) 19:07:15 ID:DbzaQbfd
本誌発行の頃には第41期名人位決定七番勝負が話題の中心になっているだろう。
最高の名人戦、名人位の防衛、就位から8、9か月、加藤名人の風格貫禄が一段と備わっているはずである。

京都で磨かれた天才

初対面は大阪阿倍野筋北畠の関西の将棋連盟本部。現在は梅田駅に近い福島に5階建ての将棋会館ビルが完成、
対局に普及行事に面目一新の姿になった「北畠の本部は鳥小屋のようなもの」とけなす声もあったが、
対局後に身体を横にできるだけでもありがたい。
東京も大阪の将棋連盟本部も、なんとか形がついたのはごく近年のこと。戦後38年間は非常時、棋界再建の連続であった。
経済大国のおこぼれで将棋界も、約10年前から急速に花が開いた。

738 名前:名無し名人 :2007/05/13(日) 19:22:58 ID:DbzaQbfd
昭和26年、3級で京都の南口繁一八段に内弟子入門。14歳で四段、毎年昇段、33年18歳で八段、
42歳の新名人は棋界発展の功労者、一般から称賛を受ける秀才よりは5年早く昭和生まれの出世頭になり、抜群の成績がある。
北畠の本部の階下のうす暗い8畳の間、壁に張り紙の成績表を眺める加藤少年から「先生、こんにちは」と明るい声をかけられた。
天才少年は何歳で何段か、正確な記憶が浮かばない。原田は階上で高段戦、当日は奨励会の対局日と重なり、将来の八段、
名人たちの対局風景をチラリと観戦したのである。
衣食住の困難時代、恩師南口八段ご夫妻は自分のお子さん以上に可愛がり世話をした聞いている。
将棋連盟本部に代わり内弟子を置き、昇級昇段を祈りながら秀才、天才の人間教育は大仕事、体験した師匠夫妻でなければ苦労は分からない。
「居候、置いてあわず居てあわず。子をもって知る親の恩」。内弟子を置き育て未完成で去る者、一人前になる者・・・・・・棋界特有の寂しさや喜びを味わい、
改めて師匠夫妻に感謝するものであった。
昨年12月初め、幸運にも桂離宮と修学院離宮を見学した。多年の宿願をかなえ、いい気分であった。
折はよし、加藤新名人の恩師南口八段と20年ぶりか、いや、30年ぶりかでゆっくり盃をあげて歓談した。

739 名前:名無し名人 :2007/05/13(日) 19:40:01 ID:DbzaQbfd
苦労人、陽気な南口さんは遠い昔を思い出し、弟子が名人になったことを喜び、満足であった。
苦難時代が今となれば懐かしい。歳末の京都の夜はあと味がよかった。
南口さんは「加藤が順調に昇級ができなかったら、原田さんのお宅で預かってくださいと頼みました。
人間教育をしてもらいたいと言ったことを思い出しますよ」。そんなこともあった−記憶がよみがえった。
30数年前の当時、原田宅には佐藤庄平、大友寛ニ、桜井昇の少年諸君と一時は中山やす子さんもいた。
よくもやってこれた、とても、その上に加藤少年を置く場所はない。当方も見るに見かねて先輩の山本武雄(八段)さんが
「内弟子が多くて大変だろうから、佐藤君一人をしばらく預かってあげましょうか」と同情してもらったほどの時代である。
昭和15年1月1日、福岡県稲築町の生まれ。
九州へ行くと出身棋士の広津久雄八段と加藤名人の顔が浮かぶ。今年の正月15日は長崎県大村市の成人式へ、
その前の正月3日に山口県長門市の成人式へ。「今の若者に期待するもの−ものの見方、考え方」を1時間半の講演をした。加藤名人についても語った。
長門市から博多へは山陰の急行電車で北九州に入る。折尾という駅の案内に「飯塚のりかえ」とあった。
たしか「"神武以来"は飯塚ときいたが、ここで天才は乗り換えて郷里へ帰るのか・・・」。30秒−1分、駅のホームを眺めた。
これが将棋の血縁というものか。

740 名前:名無し名人 :2007/05/13(日) 19:50:19 ID:DbzaQbfd
折尾駅も活気があった。改札口近くのホームに東筑件という食堂があり、弁当、うどん、そば、
4人の客が湯気の立つどんぶりをうまそうにかきこんでいた。珍しい風景でもないが、食堂の腰掛けに
加藤名人の巨体を据えると懐かしい写真になると、夕暮の駅の風景を胸にメモした。
日本はどこもよし、お国自慢がたくさんある。九州はいい、将棋の神は棋才豊かな幼年を、九州の故郷から
京都の南口家へ縁を結ばせた。京都はいい、年間4千万人が京都へ見学観光に集まるという。
他の土地とは比較にならぬほど名所古跡の多い京洛の別天地、歴史は自然にとけこみ品格が高い。
加藤幼年、少年時代、京都に学び修行鍛錬、昇級昇段は好手順、もちろん、本人の奮闘努力によるものだが、幸運でもある。
加藤の心身の清潔さ、服装の格調の高さは京都に育った人の品のよさである。

741 名前:名無し名人 :2007/05/13(日) 20:00:54 ID:DbzaQbfd
清く強い信念

加藤将棋は強さの条件が揃っている。
才能、努力、修養、健康、家庭、すべて「特上」と見る。高段棋士の才能とは、混乱の場面で短時間で
一手、一手、価値のある手を持続できること。生まれて初めて出合う局面で臨機応変に最善を尽くす、
そこに筋のよしあし、才能の差を見る。才能には大差がある。
加藤には「1分将棋の神様」、「秒読みの天才」の別名がある。駒の交換、衝突もない序盤、中盤から時間切迫、
トイレにも行かず最後まで1分将棋に追われながら勝った例が少なくない。ノータイム将棋はまさに神技だ。
早指しの天才でありながら、とことん読み極めなければ指さない癖、分かりきった局面でなぜあれほど長考をくり返すのか、
棋界七不思議、不審がる棋士も多い。人がなんと言おうと、がんとして加藤流の熟考、長考の指し方、態度を崩さない。
それは何か、信念があるからだ。

742 名前:名無し名人 :2007/05/13(日) 20:15:07 ID:DbzaQbfd
一家そろって熱心なカトリック信者。盤上の読みに浸る姿は美しい。何が最善か、もっといい手はないか、
30手先、50手先・・・・・・いく通りもの手順と「筋」を読む。近年は時間の使い方に工夫して、終盤に時間を残すようになったが−。
パウロ加藤は良心のとがめる悪事は決してしない。クラシック音楽で心を洗い、読書を好む。対局中は口数が少なく、
時には無言の行で通す。だが、休憩時間の懇談で、あるいは棋戦優勝受賞の席での謝辞なども、まことにさわやか、
機関銃のごとく雄弁で拍手、拍手をおくりたくなる。
ずるい、いやしい、意地が悪い・・・・・・人間のいやな業、それはない。心が綺麗な人だ。
170センチ、83キロの巨体、対局に追われ運動不足らしい。はちきれそうで、つやがある。
さて各界のだれに、彼の顔が似ているだろうか。北の湖、隆の里、池田大作、塚本三郎、海部俊樹の皆さんの顔、
好き嫌いを超越して右の皆さんはそれぞれの分野の立志成功の人である。頑健肥満型で福々しい。
紀代令夫人との間に健康なお子さんが4人、幼稚園児の頃の順一さんを連れて拙宅へ立ち寄ったことを思い出す。
光陰矢の如し、あの坊っちゃんが現在、大学4年に成長されたとは−拍手、拍手。

743 名前:名無し名人 :2007/05/13(日) 20:30:39 ID:DbzaQbfd
正々堂々の名人

正々堂々流の名人である。戦法、作戦は居飛車党。純相掛かり。矢倉戦法。縦歩取り戦法。振り飛車退治・・・・・・
相手は加藤戦の作戦はたてやすい。一手、一手、打ち下ろす駒音が高い。相手の闘志は他の棋士以上に燃える。
「加藤先生、残り1分です」と記録係に告げられる、その掛け声を待つように大声に、きっぱりと「ハイ」と答える。
服装は常に清潔、紺系統の背広、幅の広い大型ネクタイがよく似合う。いささかもケレン味のないまじめ流の人柄である。
棋士にはいろいろの型がある。対局重点の盤上一筋型。将棋界を盤上と見て人を動かしたくなる運営者型。普及、解説者型など。
棋士の使命は全国ファンに模範的技術を示すこと。棋士仲間に参考資料を提供すること。
将棋界を全くご存知ない方に関心を向けさせること。右は原田私見である。
名人になるほどの者はかなりの線に行く。
現役棋士は盤上重点に徹し、技術面では全棋士にねらわれることこそ本望、大名人の道を進んでほしい。
盤上の芸の頂点に立つ現役名人、技術面、対局態度、服装、言動・・・・・・少年少女をはじめファンが手本にすべく見つめている。
大木になるほど風当たりが強い。清潔で正々堂々の加藤名人を、各界各地の研修会で立派な名人と言って紹介宣伝している。

744 名前:名無し名人 :2007/05/13(日) 20:35:03 ID:DbzaQbfd
九段 原田泰夫

大正12年新潟県生まれ。NHK杯など優勝3回。A級は通算10年、
長年にわたり将棋連盟の会長、副会長を務める。
57年4月に引退。現在は将棋道を通し、社会教室など各方面で講演する一方、
初心者向きの解説書や観戦記など文筆でも活躍。
第9回将棋大賞東京記者会賞を受ける。